いろいろな立場の方がいろいろな体験をされているので、なかなか言葉を発するのが難しいです。
書いても書いても消してしまいます。
今日も、まとまった説得力のあることはかけないと思いますが、言葉を並べてみます。
医療従事者のはしくれとして、1月終わりぐらいから世間の状況を自分なりに観察し、何が起きているかを憶測も含めていろいろ考えてきました。
厚労省のデータ、外務省のデータ、興味を感じた諸外国のデータ、諸々の学会やサイトでの議論。数は少ないですが、症例のレポートも。
様々な文化を背景に、様々な人間模様や社会の様子が垣間見られて、医学的な興味に加えて、文化人類学的な興味すら感じています。
新興感染症との向き合い方には万国共通の正解というのがないので、それぞれのやり方がどういう結果になったか、今後の検証を待たんことには何とも言えないのですけどね。
やはり自分の興味が一番向かうのは、普段の体づくりの大事さ。
新型コロナウイルスが体にやってきても、半数の人は無症状。(アイスランド、クルーズ船のデータ)
症状が出ても、8割の人は軽症。
一部の人が重症化し、その一部の人が亡くなる。
集団としてみるときには、その比率がどの程度なのか、で「危ないウイルスかそうでないか」を議論する感じになりますが、
一人一人にとっては、「自分がウイルスをもらうかもらわないか、もらっても発症するかしないか、発症しても重症化するかしないか、もし命取りになってしまうとなったらそれはそれと考えるかどうか」ということがテーマとなりますよね。
「どうすればウイルスをもらわないか」に関してはいろいろ難しい問題がありますが、
「どうすればウイルスをもらっても発症しない体になりえるか、重症化する人としない人にはどんな差があるのか」は、まだ未解明のことも多く、そこを追求する意義はすごくあると思います。
それに加えて、心理的側面。できれば感染症で命を落としたくないとは誰もが思いますが、命取りになる病気や事故や怪我などはいろいろあり、そのリスクがゼロである時期というのは、一生を通じて存在しませんよね。
新型コロナが流行して、一人一人の「近々死ぬかもしれない確率」がどれぐらい変動したのか、その確率を上げたり下げたりするには、どうしたらいいのか、自分自身で考えることは、人生全般、生活全般、自分の健康状態に思いを馳せる機会にもなり得ますよね。
何かが起きたときは、ショックですしどう対応したらよいのかわからないしで途方にくれますが、「そういう局面こそが自分なりの生き方とか考え方に磨きをかける機会である」という一般論が、今現在の事態にも応用可能であると考えています。
その昔 疫病で親戚の大多数を喪った張仲景先生が、その経験から優れた臨床本である傷寒論を書いてくれはって、今を生きる私たちにも大きな恩恵となっていたり。
京都で疫病が大流行して、その後に祇園祭の発祥となり、今に至るまで京都の文化の大きな一部となっていたり。
疫病は悲劇ですが、その後も世の中は続いていき、なにがどう作用するかという目で見ると感慨深くもあります。
人類が疫病に翻弄された歴史上の出来事はたくさんあり、医学の発展もそこを起点にしていたり、ひとつひとつの問題を解決することで発展してきたとも言えます。意外と知られていませんが、漢方薬は、その起源のころから急性の感染症に用いられてきています。
「コロナ以降」と呼ばれる時代の大きな変化がくるのかどうか、現時点ではまだわかりませんが、変えられること、変えざるを得ないことは、良い方に変わっていけばいいなと思います。外食産業、観光業はじめ経済的打撃も、どうもえらいことになりそうですが、なんとか次に繋がりますようにと祈っています。職のあり方や仕事内容が変わったりということもあるでしょうが、絶望せず何かを見いだせる人がたくさんいますように…
ひとごとではないのですけど…
個人的には、やはりパンデミックになりうる新興感染症には、初期から徹底的に疫学的検査(疑わしい例も含めて全数検査を目指す)を行い、そのためにも初期から検査機関も含めた医療体制を感染予防を前提に大幅に変える必要があり、そのためにはその準備を感染勃発前からやってていただけたら有り難かったな…と他人事のように考えています。あくまで、事情をわかってない一個人の希望です。
また、ウイルス感染症にはそれなりに漢方薬などが使える場面があり、タイミングと症状、病態が一致すれば、有用であると考えているので、もっと東洋医学の発想が医療者に広がって、その「タイミングと症状、病態」を捉えることができるようになり活用されることを期待します。
今回のパンデミックには全然間に合っていませんが。
(*念の為、新型コロナに万人に効くのはこの漢方!ってのはありません。新型コロナ感染症の、このフェーズのこの症状にはこの方剤が効くかも!ってのはありますけれども。)
時代が変われば、また状況も変わると期待しています。私自身は微力たること甚だしいながらも、自分なりに目の届く、手の届く範囲内で何ができるかを引き続き模索したいと思います。